言葉は、たった5秒で20年の生き方を変える
就活を間近に控えた1月の今日、社会人の彼氏との会話↓
私:「私って結局、どこの会社に行ってもどの仕事でも、楽しめるし充実してるからいいんだよね」
彼:「それって考えることを放棄してるってことやで。どこでもいいって、思考停止してしまってるやん。」
うーん・・確かに。
私は今まで、
「どこにいても、何をしていても、しっかり意義を見い出して頑張れる、楽しめる自分」
が好きだったし、自分の長所だと思っていた。
ポジティブで幸せ感度が高いからこそであって、
その方が毎日が充実してくる。
でも今日彼にそう言われて、
「確かにこの考え方って、思考を停止させてるな」
と驚くほどいとも簡単に、長年自分に染み渡っていた心地よい考え方に
「ちょっと待てよ」と突っ込みをいれることができた。
そうしたら今日読んだはあちゅうさんのnoteで
偶然にもこのことと繋がる内容が書いてあったから
忘れないようにメモ。
はあちゅうさんのお母さまのお言葉が、
今の私にぴったりの胸を刺す名言で・・
今のままで悪くない、とか
面倒だから、現状維持しよう、と思ったら
そういう人生になんねん。
結局、「どこにいても、何をしていても、しっかり意義を見い出して頑張れる、楽しめる自分」が好きっていうのは、
自分の中の妥協を許すため、
考えるのが面倒くさいからというだけの
ただの言い訳にすぎなかったのだなと。
「自分自信が責任をもって選んだ道で、しっかり頑張って楽しめる自分」
になれるように、自分の本当の気持ちを誤魔化さずに
素直に行動に移せるようにしよう。
2017年前半、就活が終わるまでは、考えて考えて考える年。
辞めるって、世界で一番難しいことに感じる。
「すいません、辞めます。」
その言葉が簡単に言えたらどんなにいいだろう。
ゆとり世代と呼ばれる私たちは、会社をすぐ辞めるとかバイトをLINEひとつで辞めるとか、
いわば、簡単にすぐ辞める世代だと思われているかもしれません。
多分、これは事実だと思います。
「今時の子って新入社員で入っても、少し辛かったり自分と合わないとおもったらすぐ辞めるから困るんだよね〜」
っていう文句は、もう何回聞いたかわからないし、
根性がないって言われるのもまあ仕方ない。頷ける。
けれど私は、そうやって辞めるという”選択”を自分でして、その決断を実行する人を、純粋にすごいとしか思えないのです。
何かを辞めることは、多かれ少なかれ、決断力と行動力がどうしても必要になってきます。
誰だって楽な道に行きたい。なるべく無駄なエネルギーは使いたくない。
そう思うのはいたって普通。
現状を変えるための「手段」として辞めるという行動をとるのは、多大なエネルギーを使います。
日本で今、自分の仕事とか現状に満足していない、やりたいことが出来ていない、今後の人生に疑問を感じるという人は沢山いると思います。
今の仕事を辞めて、転職を考えている人も、沢山いると思います。
ただ、一体そのうち何人が実際に辞めると決断し、実行してきたでしょうか。
辞めることは本当に難しいこと。
私的に、「何かを辞める」ってそれはもう難易度10レベルです。MAX難しい。
私はまだ社会人としてひとつの会社に勤めた経験がないから、バイトの例だけになってしまうけれど。
ここで告白してしまうと、私は今、バイトを二つ辞めきれていない中途半端な状況真っ只中です....
なぜそんなことになっているかと言うと、一応ちゃんと理由があって、(ただの言い訳と言われるとそこまでだけど汗)
私は去年の8月から1月まで留学に行っていました。
以前から掛け持ちをして続けていたアルバイト二つ。留学を機に辞めることもできたけれど(今思うとその時に辞めておくのが一番だった...)バイト先の人に、「帰国したらまた戻って来なよ!行ってらっしゃい!」と笑顔で見送られ。まあ日本に帰ってきたらその時にまた考えればいいか〜と、名前は残ったまま留学生活スタート。
あっちにいる間はバイト先のことなんて頭からすっぽり。
バイト先のグループLINEがたまに動いていたのを知ってはいたけれど、関係ないからと通知オフにして、メッセージも開くだけで内容は確認していませんでした。
約半年のアメリカ生活も終わり、帰国。
「あ〜バイトしてお金稼がなきゃな〜〜」
向こうでアルバイトなど出来なかったため、お金が減っていくばかり。
大学生だから当然バイトしなければ生きていけない。遊べない美味しいもの食べれない旅行に行けない。
両親に借りている留学費用もあり、一刻もはやく働かなきゃ!という気持ちに。
新しいバイトを探さなくても、わたしには戻ってすぐ働けるバイト先がある。しかも二つも。
けれど留学生活中に色々考えて、日本に帰ったらただお金を稼ぐためだけのバイトを続けるのではなく、やりたいこと。インターンシップに挑戦してみようと思うように。
インターンシップとバイトの掛け持ちは不可能であることは一目瞭然。
だから、帰ってきてすぐにバイト先に連絡して、辞めるべきでした。
でも....
「辞める」ことが大の苦手な私。中々行動にうつせず、後回しにしてばかり。
帰ってきたばかりだし、少し休んで落ち着いたら挨拶にいこう。
ちょっと忙しいからまた来週....
何かと言い訳をつけては連絡をすることを避けていました。
そもそも何が苦手って、辞めるって言うことが自体が無理。
あの気まずい申し訳ない感覚。。
そう。小心者で勇気がないだけの話。
結局何もしないまま2ヶ月が経ってしまいました。
さすがに。
春から新しい年度になるし、もうさすがにけじめを付けなければいけない。
言う苦しみは一瞬、言わない苦しみは一生。よし。
そう考えていたその時、
「帰国しましたか?アルバイトの件、どうするのかと思い連絡しました。」
バイト先の社員さんからメール。
なんてタイミングがいいんだろう....
もう逃げられない。今だ。頑張れわたし!!!!
何かを始めるのはすごく得意なのに、
辞めるのはこんなにも苦手。
辞めたいのに辞めない時の要因って、人間関係だったり、”他人”に起因してるけれど、
辞める時は他人とか関係なく、”自分”のため。
自分の人生は絶対に他人のものではなくて自分のものだから、
自分のために選択して、自分のために生きていければそれが一番いいに決まってる。
でもそれはきっとすごく難しいこと。
自分のために生きることと、無責任だったり思いやりがなくなってしまうのは紙一重だから。
「会社の方針が合わないから3ヶ月でやめて、企業して社長になっちゃいました。」
っていう若者が沢山いる今の世の中。
そのパワーと行動力はまぶしくて、羨ましい。
どちらが正しいかなんて決められないし、どちらを非難することもできない。
忍耐力と、責任感と、根性。
決断力と、行動力と、勇気。
全部を兼ね備えるなんて、限りなく不可能に近いけれど。
常に選択の連続の中で。
決断の結果が、「今は耐える時。我慢。」でも、「変化を選ぶ勇気」でも。
どちらにしてもいつも”自分らしく”生きていきたいな、と思うのでした。
1日1文章書くぞ!と意気込んだ、二週間前のわたしに言いたいこと。
私は目標を立てるのが好きです。
新年の始めに新しいスケジュール帳を買ったら必ず、
大きな目標、小さな目標を、その後ろのページに書く。
毎回ではないけれど、その月の目標を書いたりもする。
「1日1文章!」
それが、3月の最初に私が書いた目標でした。
そうして始めたのがこの、はてなブログ。
やっぱり文章を書くには、ブログが一番いいんではないかと思って。
外に向けて発信する目的は全くなかったから、パソコンのメモ機能でもいいかなと思ったけれど、形だけでも何か残したくて。
そうして始めてみたはいいけれど、
何を書けばいいのか。思ったよりこれが難しいのです。
そもそも、ブログなんて中学三年生ぶり。
しかもあの時は、
放課後マックに行った〜
明日はテストだ無理〜〜
昨日のテレビのあの芸能人がかっこよかった!
とか。
自分と友達間で楽しむだけ、ただそれだけの、軽い日記みたいなものでした。
自分の思ったこと、考えたことを書いていきたいな。
という、漠然としたものはあったけれど、
いざブログに書こうとなると、発信というか。心の中にどこか「誰かに見られる」という意識があるから中々厄介。
かといって人のためになったり役立つことなんて到底今の自分に書けるわけがないので、やっぱりその時書きたいと思ったことを書いていくことに。
そうして書いてみると、これまたまあ難しい難しい。
〜である。〜だ。/〜です。〜ます。どっちで書けばいいのかがまずわからない。
前者でいくと偉そうすぎるし、後者は意外と文末の組み合わせを考えるのが大変になる。いまいちどちらもぱっとしなくて、結局曖昧なまま、一つの記事に二つの形が介在するようになってしまいました。
次に、文章の長さ。
今まで書いたのは全部約3000字か、それ以上。
ちょっと長すぎ...?
課題のレポート3000字書くのが嫌で仕方ないのに、自分の好きなことだとスラスラかける。
けど、結局それが、間延びして言いたいことがよくわからない文章になってしまっているのではないかなあ...と。
これは私の以前からの悪い癖で、言いたいこととか説明がすごーく長くなってしまうのです。
恋話をしてるときもよく友達に、
「その前のくだり、いる???」
「その話、半分でまとめられたよね(笑)」
と言われることが多々。(友達ちょっとひどい...笑)
話すことが大好きなだけに、
時間の過程とか、その時の気持ちとか空気感とか。
全部を伝えたくなってしまって、結局何も伝わらないという本末転倒。
文章を書くときも、なるべく全部を伝えたくなってしまって、すごく長い文章になってしまいます。
削るのって難しい。
そしてもう一つの難題が、締めの文章。
結論がある内容ではないから、どのように最後終わればいいのか...
終着ポイントが全くわからなくなります。
少し手前までは、ほんとに書きたいことをスラスラスラ〜と書いていけるのに、最後に近づくにつれ、「あれ、この話、最終的にどこにいくんだろう。」
その不安を抱いたまま、なんとかごまかしの結論を書いて半ば強制終了。
途中までは気持ち良く書いていたのになあ〜と残念な気持ちに。
最後がいまいちな文章って結局、全体がいまいち。
最後の問題が、タイトル!
もうこれは。かなり重要。
タイトルが魅力的じゃないと、まず絶対に読む気にならないですよね。
あまりにもひねりすぎてて、核心とずれていてもダメだし、
かといってそのまんますぎるものはつまらない。
一番センスが出るところ。
長すぎずに、かつユーモアに富んだ。
人をひきつけるタイトルが付けられるようになりたいなあ。
私の問題点をずらずらと書いてきましたが、そもそも、なぜ私が「1日1文章」を目標にしたかというと。
ずばり、文章が上手くなりたいから!!
そのまんますぎますね。笑
私はもともと、文章を読むのがすごく好きで、
本を読むのはもちろん、色々な情報のキュレーションサイトやwebサイト、人のブログを見るのが大好きです。
色々な人の文章を読むけれど、特に好きなのは
編集・ライターの、さえりさん。
Twitterの妄想ツイートも人気な方です。
さえりさんの書く文章は、すごく面白くて人を惹きつける。長い文章でも全く苦でなくて、永遠にスマホの画面をスクロールできる。ささいな内容でも、頭の良さが滲み出るような。文章もなんだか柔らかくて優しくて、読むと心がほっこり暖かくなるような。
はてなブログもやっていて(現在はあまり更新していないのかも...)
その中に、1日1文章書こうかな。みたいな記事があったので、私も真似してみました。単純。
あともう一人、よく読むライターさんは、
天狼院書店のサイトで文章を書いている川代さん。
彼女の文章はとにかく、赤裸々。
彼女自身の過去とか、失敗とかをありのままにさらけ出しています。
その正直さとまっすぐさが人を惹きつけるんだろうな。
私も、優しくて幸せになるような文章が書きたい。
誰かが共感して、頑張ろうと思えるようなそんな文章が書きたい。
こうして、問題点と動機を書き出していると、
”誰かに向けて書く”
ということを自分が強く意識していることに気がつきます。
発信する気なんてさらさらないとか言っていたのに。
たとえ読者がいなくても、そこに人を想像して書くことが不可欠なのかなって。
まだまだつたない文章だけど、
「好きこそものの上手なれ」の言葉を信じて頑張ってみよう。
やってみて、1日1文章は中々大変でほぼ不可能なことがわかりました。
わかることができただけでも一先ず成長かな。
とりあえず、書きたいという気持ちはまだまだあふれるほどあるので、
その気持ちが尽きるまでは書いてみようと思います。
明日も5年後も、今が一番楽しければいいのに。(20歳女子大生の悩み)
しょーもないことを、好きな人と話したい。
昨日の空の青さと、今日の空の青さどっちが好きかとか、
コンビニで買った干し梅が史上最大にすっぱかったこととか、
老夫婦がしりとししながら散歩してて和んだこととか。
雨の日は紅茶をいれて、DVD見たり
休日のショッピング。フライパンを買いに行ったのに結局服を買ってしまったり。
何年経っても、中高の友達とごはん食べて思い出話で盛り上がりたい。
ばかみたいに、お腹痛くなるまで爆笑したい。
冬が一番好きだけど、でも結局あたたかくなってくると最高に幸せで、春が好きだなって思う。梅雨が明けた後の、心踊る夏が大好きだし、おしゃれが楽しい食べ物が美味しい秋がたまらなく好き。マフラー付けて暖かいくらいの11月とか最高に好き。
・・みたいに、結局どんな日も毎日、”今日”が一番好きな自分でいたい。
私は、今まで20年間、本当に恵まれて本当に楽しんで生きて来た自信があります。
それは、他の人から見たら全然たいしたことないって言われるかもしれないけれど、
私にとってはすごく充実してキラキラした時間だった。
もともと自他共に認める超スーパーポジティブな性格だし、天気がいいだけでハッピーになれるし、小さなことにすぐ感動して幸せを感じるし。おまけに思い出も美化してしまいがちだから、人生が楽しいのは当たり前といえば当たり前なのかもしれない。
根拠のない自信(本当は根拠が全くゼロなわけじゃなくて、多分経験とかから無意識に基づいている自信なのだろうけど)のおかげで、未来への不安とかも今まで全く感じたことがありませんでした。
なのに。
春から大学三年生の今、ほぼ生まれて初めて、未来が不安でどうしよう...という悩みができてしまいました。
別に、就活が不安なわけじゃないんです。
こんなこというと、なめすぎ!後で痛い目見るぞ!とか言われるかもしれないけれど、また根拠のない自信があって。
別に就活で忙しい日々も、大変ではあると思うけど苦痛ではないし、なんならちょっと楽しみ!くらいに思ってます。
それは、一般的には辛いと言われる、大学受験の一年間がすっごく充実にて楽しかったのが原因かもしれないけれど。
高校三年の一年間は、ほんっとうに楽しかった。今までのどんな年より充実してたし、幸運なことに同じ目標を持つ良い友達にも恵まれて、毎日一生懸命頑張って、毎日爆笑してた。
不安もそりゃ多少はあったかもしれないけど、最後まで模試の判定がDでも、絶対大丈夫って思ってた。
結局第一志望には行けなかったけど、全力でやりきれたことが嬉しかったし、達成感があった。
就活が不安じゃないなら、何が不安かというと、、
そう。社会人になることです。
私はまだ一般企業かベンチャーかも全然定まってない。
友達には、わたしはベンチャーがあってると言われるけれど、うーん。どうなんだろう。
そういう具体的な悩みもあるけれど、一番大きくて厄介なのは、
すっごく漠然とした悩み。
それは説明するのが難しいけれど、まとめると、
社会人になってもわたしはちゃんと、”今が一番楽しい”と思い続けられるだろうか
ということ。
だって、
「仕事は大変だよ辛いよ〜」とか、
「好きな事できて遊べるのは学生のうち!」とか、
「学生のうちに世界に旅行行かないと後悔するよ!」とか、、、
学生最高。社会人は辛い。
みたいなことが沢山言われているわけで。
そんなことばかり聞いていたら、そうなのかな?ってそりゃなります。
ポジティブ人間でも、やっぱりなります。
私は、幸せなことに、今まで20年間は常に、
今が一番楽しい!!!
ってはっきり言い切れる人生でした。
小学生のころなんて、宿題は全く苦じゃなかったし、習い事のピアノもバレエも一生懸命頑張ってた。友達と団地おにごっこして、買い食いしたりするのが楽しかったな。
中学生は、すこし大人になった気分だった。電車で通学したり、友達だけで繁華街で遊んだり。今思うと校則やぶってしかいなかったけど。スカート短くしてネイルして、放課後コンビニで買い食いしてマックで話して。それがすごく楽しかった。
小学生のころは、できないことなんて何もないように思えた。けれど、中学生になってそこだけは変わった。
勉強は頑張っても中々思うようにはいかないし、スポーツだってそう。
上には上がいるってこのことだなって。
勉強もどんどん嫌になった。
けどそれでも、交友関係が広がってできることも増えて、
小学生のころに戻りたいな〜なんて思ったことなかったし、今が輝いていた。
高校。中高一貫だから、学校も学年のメンバーも変わらないけど、
制服が自由になって、いわゆるなんちゃって制服を着るのがすごく楽しかった。
校則もゆるくなって、学校行事もますます盛り上がって。
孤独とか、友達関係とか、もちろん恋愛も。思春期特有の悩みも沢山あったけれど。
それでも、あ〜きっと今が一番楽しいんだろうな。今が多分青春で、大人になったら、「あの時はよかった」なんて懐かしむんだろうなって。
その予想に反して、大学。つまり今現在、今までで一番楽しい”今”を過ごしている。
何より、最大の自由。
成人してからはさらに。もうすっかり大人だ。嬉しくもあり、寂しくもあり。
今まで知らなかった楽しいこと。色々な人にあったり、外国で生活してみたり、お酒を飲む楽しさを覚えたり。(お酒の楽しさは覚えても、美味しさはまだ知りません。笑)
圧倒的自由。持て余すほどの自由。
自分で働いて、お金を稼いで。
小学校の友達も、中高の友達も、大学の友達も、みんなに会える。
うん。やっぱり、今だ。絶対今が一番楽しいに決まってる。
”あの頃”を懐かしいと思うことは、大学生になって初めてした経験。
だけど、それでも「あ〜無理辛い、高校生に戻りたい〜」
となることはない。
こういう風に自分の過去を振り返って文章化してまとめると、
”楽しい”の定義が時とともに変わっているなあ。
社会人。
夜電車に乗ると、仕事に追われて疲れ切った人が沢山いる。
自分の仕事に情熱を持っている大人も、もちろん知っているけれど。
私はそういう人になれるのだろうか。
今、何が何でもやりたいことなんてない。
「はやく時間が過ぎないかな〜」なんて、定時を待ちわびながら仕事するなんてまっぴらごめん。仕事後の、合コンとか飲みしか楽しみじゃない人生。
でも....
仕事ばっかりで、毎日残業で。有給も会社の雰囲気的にとりたいなんて言えないし。海外旅行に行きたいけど、退職してからじゃないと無理かなあ、とか。そんなの絶対嫌なのです。
やりがいがある仕事がしたい。
そこそこ忙しくて、大変で。
でも、友達とも会いたいし、有給使って旅行だってしたい。
睡眠不足でパワーないなんて日々、長くは続けられないし。
くだらないこと言うと、肌荒れだってしたくない。ちゃんとスキンケアする余裕が欲しい。
空を見上げて、「あ、今日すごい好きな青色だな〜」って
思う心の余裕がある毎日を送りたい。
わたしは珍しがられるこれど、学校が大好き!!っていう人だから、
月曜日を苦に思ったことはありません。
でも、社会人になったら思うのかな。
日曜日の夜に、
明日来ないでくれ〜〜〜〜〜
って。
嫌だなあ。
なんで今めずらしく、未来のことを思って憂鬱になっているかというと、
就職したいな、働きたいな、と思うことができた会社が、
色々な人の話を聞くと、超激務。ひどい時は一週間にちゃんとした睡眠が数時間しかとれないという。
やっと、行きたい!目指したい!と思える会社が、何となくだけど見つかり始めたのに、
それは無理だ。。。
と、最初っから出鼻をくじかれてしまいました。
うーん。どうしよう。悩める。。
ただ、未来について悩むってこんな感じなんだ!と、
真剣に悩むという経験ができてよかったな〜とも思ってる、ポジティブ人間なのでした。
変わらないこと、変わってしまうこと
10年経っても変わらないこともあれば、たった半年で変わってしまうこともある。
わたしは、世の中は(少なくとも私を取り巻く人、環境は)そんなにすぐには変わらないとすっかり信じ込んでいたし、変わることなんて全然ないと思ってた。
わたしがアメリカに留学していたのは、去年の8月から1月の約5ヶ月。
その5ヶ月は、本当にかけがえのないものだった。
20年弱生きてた中で、大げさではなく1番大きなことだったし、沢山の経験をして、大きく成長できたと思う。
初めて家族と離れて暮らし、しかも初めての長期海外生活。
慣れない土地での生活は、当たり前に私を以前に比べてしっかりものにしたし、
多くの人との出会いが価値観を広げてくれた。
変わるというより、成長。
変わるっていう単語は、物事の本質から180度変わるような印象があるけれど、(例えばすごく人見知りだった人が留学して社交的な性格になったり、ネガティブな人がポジティブになったり。)
私の場合は、もともと社交的だったのが、もっと社交的になったり、コミュニケーション能力があっがたり(日本人に対してだけでなく、他の国の人とのコミュニケーションも)、もとにあったものが大きくなってパワーアップする感覚だった。
だから、自分ではなんとなく実感できても、他の人がその変化に気がつくことはあまりない。
それでも、帰って来たばかりのころは家族や仲の良い友達に、成長したねと言ってもらえることがあり、素直に嬉しかった。
ただ、ひとつ自分の中の意識が変わったことがある。
それは、人付き合いに関する考え方。
日本にいるとき、私はほんとにいわゆるサークル充(大学のサークルで充実してること)だった。
いつも一緒にいた。
半年みんなと離れると思うと高校生のときからあんなに行きたかったアメリカ留学なのに、行きたくない〜と泣き言を言ってしまうほど。
案の定、あっちでの生活が始まってすぐのころは、みんなが一緒にいる写真をSNSで見つけては夜眠れないほど寂しかったし、会いたくてたまらなかった。
自分がいかにみんなに依存してたのかを痛いほど思い知った。
あんなに、連絡する!テレビ電話しよう!と言ってくれた友達も、
いざ離れると疎遠になってしまう。
このことが最初はすごくショックで、上辺の関係だったのかな...とひどく落ちこんだりもした。
けれど、多分そういうことではないと、ずっと経ってから思う。
仲の良い友達が遠くに行って、一方自分の生活は変わらず、友達付き合いも住む場所も変わらないという場合。行った方は、生活や友達、今までの環境全部が一変する。一方、残ったほうは何も変わらない暮らしのまま、ただその人だけがいなくなる。
この時、変わらない関係を求めて連絡をより取りたくなるのは、行った側。
行かなかった方は、その友達のことを大切に思っていたとしても、連絡を取るのを中々先延ばしにしてしまうものなのだ。
実際わたしが日本に残り、友達が違う国にいったとしても、中々連絡をとらなかったと思うし、実際今までもそうだった。
これはもう仕方のないこと。
ただ、そんな中だからこそ、いつまで経っても忘れずに連絡をくれる存在が際立つ。
そんな人がいることが泣けるくらい嬉しくなるし、大切にしたいと思う。
わたしは日本にいるときは割と、”広く深く”の人付き合いだった。
友達はみんなすごく好きだったし、好き(友達として)な人が沢山いた。
でも、友達とひとり離れた環境で過ごして、
本当の本当の本当に大切な人
というのに気がつくことができた。
ずっと変わらず連絡を取ってくれた人というのもあるけれど、
わたしがその存在に気がつくことができたのは、
”一緒にいて楽しい人ではなく離れて寂しい人を選びなさい”
というツイッターでみた言葉だ。
その通り、これほど離れるという経験をした人にしか本当の意味ではわからないことはない!と、すごく感動したのを覚えている。
普段一緒にいるとわからないけど、確かに一緒にいて楽しい人は割と沢山いるが、離れて寂しいと思う人はある一定数しかいないことに気がつく。
その中のひとりに、サークルのひとつ上の男の先輩がいた。
その人とは前から特別仲が良かったし、尊敬していた。
行く前も、頑張れるような言葉をかけてくれたり、メッセージもくれた。
向こうに行ってからも、時々電話してくれたり、
「帰ってくるの待ってるよ」「頑張ってるの知ってるから、頑張れって言えない。体調に気をつけて」のような嬉しくなるような言葉をくれた。
その人の言葉はいつも、うまく言えないけど”その人らしさ”がすごく出ていて、
上辺じゃなくてその人がわたしのことを本当に思って言ってくれてる。その人の優しさとか性格が出た言葉だった。
私はいつもその言葉に元気付けられていたし、なんなら毎日、その人がいるから頑張ろうと思えた。
心のそこから感謝してたし、帰ったら絶対に直接ちゃんと、ありがとうって伝えようと誓った。
LINEじゃなくて、電話でもなくて、直接会って自分のことばでありがとうって言う。そう心に決めていた。
その先輩も私が帰った一ヶ月後に、留学することが前々から決まっていた。でも、一ヶ月もあればお礼を言うには十分だと思っていた。何回か会うご飯に行ったりみんなで飲みにいったりする機会はあったのだし。
けれど、結局わたしはありがとうと伝えることができなかった。
上手く説明できないけど、わたしが帰ってきてから、私たちの関係は確実に、何かが変わってしまった。
なぜかは全くわからない。けれど、絶対に私の勘違いではない。
これはもうわたしと先輩の2人にしかわからないことだけれど、とにかく”変わった”のである。
話すのも明らかにぎこちなくなって、どう接したらいいかわからなくなったような...
私は本当にショックを受けた。すごく大きなショックだった。
あんなに信頼してて、この関係はずっと変わらないんだろうなと思ってたものが、変わってしまったのだ。
結局、変わってしまった関係を修復する時間もなく、先輩は留学に行ってしまった。
先輩が留学したら、今度はわたしが連絡をとって、言葉をかけるんだと、あれほど決心してたのに、一ヶ月経つ今、何もできていない。
連絡を取るのが気まずいし少し怖いようななんというか...
人の関係は、ほんとうに半年で変わってしまうものなのだろうか。
それとも、もしかするとあれはわたしの思い込み、考えすぎなのか。
まとまりがなくなってしまったけど、わたしにとってはすごく大きいことだったので書きました。
また進展して、解決したら書こうかな。
時間が経てば、いい方向に進むのかも。
行動中毒 新しい自分にMeet Up!
えいっっっ!!!
新しいことをやってみるのは、何より勢いが重要。
どうしようかな、やろうかやらないか、、
でも疲れそうだし、面倒くさいし、お金もないし
家でゆっくりしたり、いつもの気の合う友達とだらだら話しながら飲むほうがいいんじゃないかな、、、
なんて。やらない理由が次から次へと出てくる。
長所は行動力です!と自他共に認めるわたしでさえ、
不思議なことにそうなのだ。いつもそうやって迷って、その上で毎回結局は行動するっていう行動力。努力しないと、行動力なんてつかないきがする。
昨日の夜からずっと迷ってたこと
それは、Meet Upのイベントに行くかどうか。
*
Meet Upというのは、趣味が同じ人、目的が同じ人(ジョギングしたい、英語をはなす機会が欲しい、フランス人と知り合いたい等)をつなぐシステム。
誰でも自由にグループをつくることができて、誰でも自由にそのグループに入ってイベントに参加できる。
例えば、都内でジョギング仲間が欲しいな〜と思ったら、「東京 ジョギング」と絞って良さそうなグループを見つけ、そこのイベントに参加し仲間を増やす。
またはグループを自分で作っても良し。
ネットで簡単にコミュニティに所属できる、みんなの需要供給が結びついた現代にあう新しい出会い方。それがMeet Upである。
わたしがサンフランシスコに留学していた時、最初のころは土日に遊びに行く友達も少なかった。
家に閉じこもらず、外に出たい。
英語をもっともっと話したい。
色々な国の人と出会いたい。
どうしたらいいのかわからなくなったら、私はいつでもすぐGoogleに頼る。
とにかく何でも調べる。
現代っ子の鏡すぎる。。
そして見つけたのがMeet Up
「Culture English International」のようなキーワードで探してみると...
出てくる出てくる。本当に驚くくらい沢山のグループをオススメしてくれる。
新しい出会いと経験。期待に胸が高まり、ワクワクしすぎて40近いグループに入ってしまった(笑)
その中から早速良さげなイベントを選んでみる。
なんせ40以上のグループに入ってしまったから、選択肢が多すぎて大変(笑)
選ぶ基準としては、
・場所のアクセスが簡単
・料金が安い
・参加予定にしている人の数が多い(参加しやすい)
・危なそうじゃない(笑)
そして私が記念すべき最初のMeet Upイベントとして選んだのが、
ゴールデンゲートパーク(サンフランシスコの大きい公園。あのNYセントラルパークより広いそう)で行われる、ピクニック。
ただのピクニックではなく、世界中の色々な国からサンフランシスコに集まった人がそれぞれ、食べるものを持ち寄ってくる。異文化交流を目的としたピクニックだ。
無料で参加できるし、参加人数も多そうだし...よし。行ってみよう。
こうして私は誰か友達を誘うわけでもなく、一人で日曜日のゴールデンゲートパークに向かった。手にはスーパーで買ったSUSHI(といってもカリフォルニアロール)を持って。
着いたはいいものの、広い公園だからどこでやっているのかわからない...
書かれていた場所の住所を見て、Google map頼りにいってみるけどそれっぽい人達がいない。
諦めてこのまま帰る...なんてことはありえないから、仕方なくイベントを取り締まっている男の人に、Facebookで連絡をとってみる。
とても親切に対応してくれて、なんとか到着。
あ、長テーブルにごはんが色々用意されてるし、あれかも!
と思ったのと同時に、
ん?意外と人が少ないなあ....
不安。
結局その近くのベンチに座って様子を見る。(いいからはやく行け!笑)
こういうところ。中途半端にチキンな性格どうにかしたい。
結局、遠すぎてどんな感じか様子がわからないし、人数もまだ増える気配もない。
もう行っちゃえ!えい!!!
結局いつだって、最終的に必要なのは勢い。
まっすぐ向かってる途中で、Facebookでメッセージを送っていた主催者の人が私に気がつき、わざわざこっちに歩いてきてくれた。
そこから私もすでにいる人達の輪に入り、
それぞれの出身国のこと、サンフランシスコのこと、仕事や大学の話、言語の話(日本語に興味を持ってる人が沢山いて驚いた)など、沢山の人と会い、話す。
たしか3〜4時間ずっと話しっぱなしだった。各々が持ってきた美味しいごはんを食べながら。
時間が経つと新しい人も加わり、結局結構な人数になっていた。
国籍、年齢は本当に様々で、おじいちゃんとも言語や文化のことについて熱心に話す事ができたのが面白かった。
そこで仲良くなった人達と、そのままその日の夜にあった別のイベントに行くことになり、勇気を出して行ってよかったな〜としみじみ思う。
20年という短い人生の中でだけれど、私の経験上、行動して後悔することはなに一つなかったように思える。
「行動する」という行為を何回も続けると、行動は確実にプラスだという確信がついてくる。
やらない後悔よりもやる後悔。という言葉は良く言われるけど、本当にそれを身を以て体感する。
ある程度までいくと、もう、やらなきゃモヤモヤするようになってくるのだ。
考え方・行動は、習慣化されていく。
「やる」「やらない」の二つの選択肢があったとき、
前者の「やる」しか見えなくなると思う。
私は多分今その過程にいるんだと思う。
もう一方の、「やらない」という方も、癖になる気がする。
一度、まあやらなくていっか、という楽な方を選ぶと、
最初はその「やらない」という行為に少し罪悪感を感じていても、どんどん続けていくとそれがもう普通になってくる。「やる」という選択肢がなくなってしまう。
今回もまだ私には、「やる」「やらない」の二つの選択肢があったけど、
「やらない」側に気持ちを持って行こうとすると、すごくモヤモヤするのだ。
なんか居心地が悪いような、いつもやってることと違うから変な気分になる。
結局、やらない理由、言い訳が「度胸がない。ハードルが高い。」ってことくらいしか思いつかない。
もう「やる」理由しかないのだ。
今までやってみて後悔したことなんて一つもないし、もし死ぬほどつまらなくても死ぬわけじゃないし。つまらなかった、という経験は私の人生を逆におもしろくさせてくれる経験だ。うん。
そうして行った今回のMeet Up。英語で日本人、外国の方とHUBで飲みながら楽しく話すイベントだった。
日本人が多くいたが、ほとんどずっと英語を話していた。
元々、留学後に英語力が落ちるのが嫌で、なんとか英語を話す機会を作りたい!と思ったのが今回のイベントに参加する目的だったけれど、久しぶりに長時間英語をしゃべり、多くの人に会うことができて、とても有意義だった。
予想通り、行ってよかった〜と帰り道ににんまりする結果に今日もなったのだ。
わたしは行動するのが好きだ。
それは、新しい経験とか出会いとか、単純に楽しいとか、もちろんそういうこともあるけど、それより何よりも、
自分がレベルアップしていくのが実感できるから。
新しいアクションを起こして実行すると、
自分がゲームの中にいて、レベルがどんどん上がっていくような気持ちになる。
5ポイントアップ!とか、
剣を手にいれた!とか...(あまり実際にそういうゲームをしないから細かいことはよくわからないけど笑)
そのときの気持ちを一回して知ってしまったら、もうやめられないとまらない。
またその気持ちを味わいたくて、また次のやるかやらないかの選択を迫られたとき、どうしてもやらずにはいられない。
わたしはもうすっかり行動中毒になってしまったのだ。
【目標】スタバ以外の行きつけのカフェを見つける
池袋の西武口を出て、無印良品をもう少し進んだ先にあるスタバ。
結局いつもここに落ち着いてしまう。
私はネットで良さげなカフェを探すのが好きで、よくいれる検索ワードは
「池袋 カフェ 勉強 作業」
池袋が渋谷や代官山に変わることもあるが、家からの交通の便を踏まえるとやはりどうしても池袋が多くなってしまう。
ただここで問題がある。
都内のカフェに詳しい人なら周知の事実かもしれないが、池袋は渋谷など他の都心に比べるとおしゃれでかつのんびりと過ごせるようなカフェが圧倒的に少ない。
私がカフェに行く目的の90%は、勉強や読書だ。
Macbookを広げて調べ物をしたり、本を読んだり英語学習をしたり...
自己満足も含まれているとは思うけど、別にそれでいい。そもそも時間なんて自分一人のものだし、自分の時間をとても有意義なものに感じさせてくれるからもう最高。大好きなひととき。
このステキな時間を送るためには、どのカフェに入るかというのは重要項目。
明日時間があるしカフェに行こう〜と寝る前にウキウキ気分でカフェ検索をする。
あ、ここちょっといいかも。電源もWiFiも完備されてるし、広いし長いできそう。完璧!
良さげなカフェを見つけ、そこに行く明日をワクワクしながら眠りにつく。
新しいカフェとの出会いが自分の勉強もはかどらせ、きっといい1日にしてくれるに違いない、と期待しながら。
次の日。いつも通り池袋に向かう。
そして私が頼むのは期間限定の桜フラペチーノ。階段を上がって3階、いつもの丸机の席。
ふぅ〜落ち着く最高。。
そう、私がいるのはいつものスタバだ。昨晩検索して胸躍らせていたカフェではなく。
もうほとんど無意識というか癖というか...なんと説明するのが一番ピッタリだろう。
とにかく、気がつくと足が向かっている。
私は中学生の時からテスト勉強たびにここに来ていた。
高校になっても、受験勉強の時も、そして大学生になっても。どこかカフェで勉強をする時は必ずといっていいほどこのスタバに来ている。
多分そのせいだろう。
高校生までのお気に入りの席は10人くらいが座れる大机だった。ひとつの大きい席だけれど、ひとりひとりがそれぞれ別々のことに打ち込んでいる。会話目的で来る人達は大体2人用の机に座るから、この席は大抵ひとりで黙々と何かやっている人で埋め尽くされている。
この机が好きだったし、テスト勉強も、ここでなら一層頑張れる気がした。
高校生というのは抹茶フラペチーノかキャラメルフラペチーノを頼むものだ。私の知る限りでは。
それと、期間限定のフラペチーノ。冬の寒い日でも構わずフラペチーノを頼んでいた。夏でもホットのキャラメルマキアートを頼む今では考えられない。
JKはやっぱり最強なんだな〜と感じる。
高校生にとって、”スタバでフラペチーノを飲む”というのは、金銭的に頻繁にできるものではない。放課後いつも行って友達と長いこと喋ってるマックとは2倍3倍もの違いがあるのだ。
一杯で、当時の一ヶ月のお小遣いの10分の1もする。(当時の一ヶ月のお小遣いは5000円。)
だからこそ勉強が行き詰まった時、やる気がなくなった時にスタバに行き、もう少し頑張ろうと自分を奮い立たせる。
高校生の時の自分にとって、スタバは秘密兵器だった。
時は経ち、大学生。
アルバイトをして自分でお金を稼ぐようになり、自分の行きたいと思った時に好きにスタバにいけるくらいの金銭的余裕ができた。
”スタバでフラペチーノを飲む”というのは、もはや特別なものではなくなった。
大学生になると友達とお茶をするのもスタバではなく、表参道や代官山、自由が丘のお洒落なカフェを好むようになる。
新しいカフェを見つけることは、お気に入りの服を見つける時みたいにワクワクする。新しい自分も一緒に見つけられるような、大人になれるような。
とにかく、楽しい!
元々新しいもの好き、ミーハーな性格のため、どんどんカフェ開拓していきたい!
そう言いながらも、なぜ大学2年生の今でも私はあのスタバに足を運んでしまうのだろう。
たしかに電源、WiFi設備が整っているというのは重要なポイントだ。
ネットで調べた時に、充電できます!と書いてあっても、いざ行くとその席に通してもらえなかったり(その後わざわざ席変えてくださいというのもなんだか気がひける...)
WiFiの接続が悪かったり。
その他にも、新しいカフェに作業目的で行くと、ただ友達とお茶をしに行く際には気が付きもしないような点が気になってくる。
照明が暗い、ドアが開く度に風が通って寒い、机が低い、ガヤガヤしている...
結局、どこに行っても、あのスタバ以上に良いところはないのだ。
あとはやっぱり、中学生(正確には中3)から今まで約6年間で構築されたわたしとスタバとの関係の強さは誰にも、いや、どのカフェにも負けないということだろうか。
しかも、全国に沢山ある他のスタバじゃなくて、”あの”スタバ。
一種のパワースポットのような。
今までここで頑張ってきた記憶がしっかりこの場所に染み付いていて、来るたびに
今日も頑張れ!
と力をくれるような気がする。
初めて来た時、英語で会話する外国の方の多さにびっくりして。聞き耳たててリスニング力試したけれど全くわからなくて。
徹夜で迎えた試験1日目終わった後、2日目の科目もやばいから一息する暇もなくスタバに向かって勉強して。
塾の自習室で9時まで勉強したあと、移動してまた11時まで勉強して....
思い返すと本当に、頑張りがつまった場所。思い出がつまった場所だなあ。
でも、大好きなんだけどそれでも、
「オススメのカフェどこ〜?」
って聞かれた時に、スタバじゃなくて、
どこか違うところを教えられたらなあと思うのです。
こないだ渋谷のFREEMAN CAFEに行った時、青学の女の子は学校帰りにこういうところでお茶したりレポート書いたりするんだろうなと、ちょっと羨ましくなった。
とりあえず今年の小さな目標の一つは、去年できなかった、
”スタバ以外の行きつけのカフェを見つける”を達成することかな。